16日のロイター通信は、昨年12月27日に始まった
イスラエルのガザ攻撃によるパレスチナ人犠牲者が、
死者1132人、負傷者5100人になったと伝えました。
イスラエル軍は、学校、病院、国連本部までも
無差別に爆撃しています。
犠牲者の大半は女性と子供だそうです。
私の父は、昭和20年5月14日の名古屋大空襲で
母親を亡くしました。
この日の午前8時、
486機のB-29が名古屋上空に襲来し、
1時間半に渡って2563トンの
焼夷弾を投下。
その爆撃はすさまじく、名古屋城も2時間あまりで焼失しました。
名古屋城のすぐ近くに住んでいた父親は、
空襲の際、母親に手を引かれて一緒に逃げたのですが、
雨霰と降る焼夷弾の中を逃げ惑ううちに、
いつしか離ればなれになってしまいました。
空襲が終わり焼け野原と化した中、必死で母親を捜していると、
誰かが近くの学校へ行くように教えてくれました。
怪我人はみなそこへ運ばれているというのです。
そこで見つけたのは、
焼夷弾の直撃を受けてすでに絶命した
母親は変わり果てた姿でした。
もし途中ではぐれていなかったら、
父も一緒に死んでいたでしょう。
そうなれば、当然私も存在していません。
亡骸は、火葬にすると煙が上って戦闘機の標的にされると言われ、
大八車に乗せて十数キロ離れた郊外まで運び、
自分たちで埋葬しました。
その後、父は姉二人も失い、
一年の間に、6人家族のうち3人を亡くしました。
「悲しすぎて涙も出なかった」と父は言います。
昭和20年8月6日、G太さんのお父さんは、
当時住んでいた広島で被爆しました。
爆心地から1.8キロ。
お父さんは背中に火傷を負い、
幼かった妹と祖母が倒壊した家屋の下敷きになりました。
祖母は梁に押しつぶされて息絶えているようでしたが、
妹は柱が重なった下に入り込み、たいした怪我もない様子で
「助けて!」と泣き叫んでいました。
そのうちに、近所から火の手が上がり、
みるみるうちに自宅にまで燃え移り始めました。
妹のいる位置にも徐々に火が迫りますが、
折り重なっている柱は重くびくともしません。
「助けて!」妹は引き続き泣き叫んでいます。
このままでは生き残った家族全員が犠牲になる、
おじいさん(義父の父)は、
万斛の涙をのんで救出作業を打ち切り、
その場から避難することを決意しました。
後に、おじいさんの植木兵三さんは
手記『万斛の涙をのんで』にこうしたためています。
恵(妹の名前)の「お父ちゃん助けて!」の声は
私の耳底にこびりついて、
寝ても覚めても、払えども払えども、払い去ることができない。
力なき父よ、
子の信頼に報いることができなかった父よ、
汝は死して地獄に堕ちよ!
火に苛まれよ!
可愛い盛りの2歳半でした。
何の罪もない人々が犠牲になる戦争ほど
愚かで悲しいことはありません。
一日も早い停戦を心の底から望みます。