65回目の終戦記念日。
オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞した際のスピーチを
思い返しています。
大統領は、『正しい戦争もある』と言いました。
『非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊をとめることも、
アルカイダの指導者たちに武器を置かせることもできなかっただろう』と。
確かにそうかもしれません。
大統領が言うように、この世に必ず『悪』は存在します。
今年の広島原爆の日、65年経って初めて、
国連事務総長とアメリカの駐日大使、
核保有国である英仏の代表者らが参列しました。
米国内では、代表が出席することについて
退役軍人や議会を中心に反発が起き、
ニューヨーク・ポスト紙は、
『原爆は戦争を効果的に終わらせた』として、
『日本に対して謝罪する必要はない』といった内容の社説を掲載したそうです。
ここにも、『正しい戦争』の論理があります。
以前、ニュースで、北朝鮮市民を隠し撮りした映像が流れていました。
顔を隠した男性が、
「どこかの国が戦争を仕掛けてくれればいい。そして、体制を変えてほしい。
たとえ戦争で死ななくても、僕らには飢死が待っているだけだ」
と言っていました。
ここでも、『正しい戦争』の言葉が脳裏に浮かびました。
正しい戦争とは何なのか?
誰にとって正しいのか?
空襲で亡くなった私の父の母、
原爆で亡くなったG太父のおばあさんや幼い妹をはじめ、
無数の爆弾が雨霰と投下されるその下、
原爆が炸裂したその下で生活していた人は、
その日、その瞬間まで、
明日が来ると信じてひたむきに生きていた
何の罪もない人々です。
この人たちの魂は、無念は、
「この戦争は正しかったのだ」と言うことで
救われるのでしょうか?
戦争に正しいも正しくないもないもあるもんか、
戦争ほど愚かな事はないと思っています。
思っていますが、
たとえば自分が、ナチスドイツの迫害を避けるため、
隠れ家に身を潜めたアンネ・フランクだったら…
と思うと、
自分を隠れ家へと押し込んだのが戦争ならば、
解放してくれたのもまた、
(アンネ・フランクは隠れ家を発見され、強制収容所にて死亡)、
戦争だったという事実は否めません。
武力のない平和
武力に頼った平和
考えれば考えるほど、頭の中が堂々巡りになり、
正直、私にはよくわかりません。
悲しいことに、人類は愚かすぎて、
理想を掲げるだけでは、真の平和は望めないのかもしれません。
それでも、
理想は持たないより持った方がいいはずです。
正しい、正しくないはさておき、せめて、
国を越え、人種を越え、宗教を越え、
戦渦に巻き込まれて命を落とした人々を悼む事の出来る
世の中であってほしいと望みます。
そして、戦争の悲惨さを後世に伝えていく努力を怠らない事、
それこそが、戦争で亡くなった人々の御霊に報いることだと思います。
「死んだ女の子」
作詩:ナーズム・ヒクメット
訳詞:中本信幸 服部伸六
あけてちょうだい
たたくのはあたし
あっちの戸 こっちの戸
あたしはたたくの
こわがらないで みえないあたしを
誰にも見えない死んだ女の子を
あたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 夏の朝に
あの時も七つ 今でも七つ
死んだ子はけっして大きくならないの
炎がのんだの あたしの髪の毛を
あたしの両手を あたしの瞳を
あたしの身体はひとつかみの灰
冷たい風にさらわれていった灰
あなたにお願い だけどあたしは
パンもお米もなにもいらないの
甘いあめ玉もしゃぶれないの
紙切れみたいに燃えたあたしは
戸をたたくのは あたしあたし
平和な世界に どうかしてちょうだい
炎が子どもを焼かないように、
甘いあめ玉がしゃぶれるように
炎が子どもを焼かないように
甘いあめ玉がしゃぶれるように
PR